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NEW  B1のピックルボールの紹介は仮の試行版です。

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       徒然人

        n.chanの独り言





参考文献

「東海道昔と今」保育舎 

「広重と歩こう東海道五十三次」小学館

「街道テクテク旅」NHK) 

「広重東海道五十三次の秘密」NONBOOK

ほか各地の案内資料や展示会などの情報




下記も見てください


リンク先


55東海道を行く  その1


広重の版画


55東海道 全編55巡り その3
前半の濱松までです。


55東海道全編55巡り その4


後半の京都までです。





55(GOGO)東海道を行く その-2

あらためて広重の東海道を見直す


旧東海道を旅しての東海道にまつわるいろいろな情報です。

新しい情報や過去に掲載した中から面白いものを残します。

広重150年記念展示や地元の資料館情報、伝説など他広重の謎めいた話など色々あります。

1話から9話まで記載しました。

 


1.宿場と旅人

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旅行の楽しみは宿に泊る事にもありますね。江戸時代には各地の旅も庶民のはやりで四国巡礼やお伊勢参りも盛んでした。

「弥次喜多珍道中」も東海道から金比羅.宮島など各地に泊り楽しんだようです。
宿場は旅の途中で寝泊りするところですが色々な役目や種類があります。今月の紹介写真にもありますが、先ず本陣、脇本陣があります。これは大名や幕府の役人が泊るところです。これからもこの東海道を訪ねる旅に本陣跡が随所に出てきます。
武士や一般の旅人が泊るところを旅籠と言います。旅籠の籠は当時の旅の乗り物であった馬の餌を入れる籠からきていますが馬も泊められるような宿から旅籠となったようです。今ならば駐車場付きの宿でしょうか。
自炊する宿が木賃宿でキチンとは米を炊く木材から名前が付いたと聞いています。
そのほか休みどころとして「茶屋」があり、広重の絵にもよく描かれていて戸塚、丸子、石部、草津、大津、などがあります。
写真上から 旅籠 本陣 茶屋



2.広重の『著作権侵害』

 



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広重の有名な絵ですが場所は蒲原(静岡)で
なく新潟とか??想像像の絵でしょうか。それ
とも・・・






上の赤枠は葛飾北斎の絵です。




青枠の絵は広重の名古屋の絵です。

似てますね・・・・。

今回は広重の『著作権侵害』?の話題と行きましょう。

 これは広く知られたことですが、広重の東海道行脚は天保3年冬から4年に掛けてと言われている。「東海道五十三次」は、人間が主役、旅行く者、働く人、四季の風景や生活に生きる姿、風俗を見事に描かれている。
しかし、物の解説書によると本当にすべての場所に旅して絵を描いたのか疑問な箇所が多くあるようです。
 例えば、まだ本HPには取り上げてませんが(11月ごろ予定)徒然人も一番気に入っている蒲原(夜の景)は雪の中の旅人を描いていますが広重が訪れたのは夏の季節であり芸術家の創造と描写力ではないのでしょうか。下の画像はその蒲原の絵です。
 その他では、石部(目川の里)、奥津、江尻、岡部、島田、金谷、袋井、赤坂などなどは「東海道名所図会」を参考に創造したものが多いようです。また、十返舎一九の「続膝栗毛」との関係では6箇所程ある。逆に広重の絵の後に作成された「尾張名所図絵」では広重の絵のほうが正確に描かれているそうです。いずれもお互いにその箇所の絵や構図を借りてきているらしく、この時代には版権や著作権もあまりうるさく無かったのでしょう。
 ちなみに本HPで利用している絵は出展や印刷所も分からない広重の印刷画像を利用させてもらっています。
  
 参考文献  宝永堂版広重東海道五拾参次(岩波書店) 




3.小夜の夜泣石(掛川市)

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小夜の中山は、急峻な坂の続く街道の難所。うっそうとした樹木に埋もれ、当時は山賊なども横行したため、大の大人でも峠越えは容易ではありませんでした。
 その昔、妊婦が中山峠を越える途中、山賊に襲われて殺されてしまいました。
亡き母のかたわらで泣いていた生まれたばかりの赤ん坊は、村人に拾われましたが、母の霊は傍らの石にのりうつり、夜になると泣き出すようになったそうです。そして、その赤ん坊は立派に成長し、母の仇を討ったと言われています。現在、夜泣き石は、中山トンネルの脇にも据えられており、伝説ゆかりの久延寺にも同様の石がまつられています。

掛川市観光協会資料より
    写真は移動された中山の夜泣き石





4.「東海道五十三次」復刻記念展

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最近旅行会社主催の東海道ツアーで旅する企画が目立っています。新宿の某所でその説明会にどんなものかと聞きに行きました。
年配の方が多かったのですが女性の方が目立ちました。皆さん旅好きで知識欲旺盛な方と推測いたします。
徒然人は気ままにと思っていますのでガイド付のツアーには参加しませんが、その分、自分で事前に地図や写真などで調べて行くのですが、これもまた良いものです。
 調べているうちに広重の東海道に付いていろいろ興味深いものがあり、なるほどそうだったのかと一人で合点しています。

 そんな折H19年3月東京銀座で慶応義塾図書保永堂版「東海道五十三次」復刻記念展が開催され、55枚の版画と現在の地図、「名所江戸百景」のあわせ摺りの体験コーナも有りました。早速徒然人も飛び込み体験してきました。
また、神田でもH20年3月に同様の内容で開催されました。   写真はその時のものです。
 




5.箱根八里(箱根町)

写真は箱根のお玉が池・芦ノ湖と富士http://homepage2.nifty.com/n-chan/img552.jpg

    お玉が池 箱根旧道


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 箱根芦ノ湖を、富士を一望百景


 ご承知かと思いますが、歌の「箱根八里」は、文部省の発案で、中学唱歌を作ることになり、文学者である、大学教授鳥居氏に作詞を依頼し、作曲を一般公募したのです。
漢詩の素養があり、中国式の大きい表現を用いたのではないですか?
白髪三千丈とか、一日千里を走るというワールドです。
「髪の毛が三千丈も伸びひんやろ」と、つっこんでは、いけない世界です。

江戸時代の箱根関所では「入り鉄砲に出女」といって、幕府に逆らう人たちが江戸の町に鉄砲などを持ち込まないかとか、あるいは、人質になっている地方大名の妻たちが逃げ出さないかなどと、関所の番人による、かなり厳しい取り締まりが行われていたそうです。

ちなみに「関東」という呼び名には「箱根の関所よりも東側」という意味もあるそうで、江戸の人たちにとっての箱根は、とても重要な拠点だったのでしょう。

「箱根八里」の歌詞は、そんな関所の険しい様子を「天下の険」と言ってるのだと思います。万丈の山とか千仭の谷は、突破の厳しいイメージを付加するための詞ではないでしょうか。


箱根八里とは小田原から箱根までの4里10町と箱根から三島までの3里20町であわせて約8里。




6.あらためて広重の東海道を見直す

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藤広重の東海道五十三次の誕生について調べてみました。江戸時代の文学での大ヒット作品は次の2作品と言われています。 

1.曲亭馬琴(本名 滝沢興邦)の『南総里見八犬伝』
2.十返舎一九の『東海道中膝栗毛』

ご存知のように
1.は現代風に言えばSFで英雄豪傑が繰り成す空想魔界の物語です。
2.のほうは江戸っ子のヤジさん、キタさんの道中本で滑稽や笑いがあり庶民的な物語です。1802年に出版され大ヒットしたものです。
安藤広重の『東海道五十三次』は2.に倣って東海道を描いたそうです。時代は天保3年(1832年)の冬から天保4年です。

江戸 文化文政時代は江戸幕府の最後の安定期でもあり「大江戸文化」と呼ばれる町人文化が爛熟期を迎えていました。商品経済の発達は封建制度を蝕み財政的にも苦しくなってきた。また外国船の渡来もあたっが鎖国主義の幕府は過去の夢を追い無策でもあった。
武士の気風は乱れ世の中が享楽主義に溺れていった。抑圧された町人文化は表は地味に、裏の目立たない所は贅沢な趣向を凝らすことが流行した(いわゆる通の世界)
このような時代背景の中で1.2.のような読本や狂歌、川柳、浮世絵、錦絵などが発達し広重や喜多川歌麿の版画や浮世絵もその一つです。

参考までに:歌川広重とも言われますが歌川は今で言うペンネームで安藤が本名です。
 
参考文献:年表日本史提要 (山川出版)等を参照。




7.広重の絵はものまね?

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 過日神奈川県立歴史博物館にて買い求めた本が興味をそそる内容で『東海道五十三次の広重はそのほとんどがある人物の絵からのまねで本当は広重は東海道を歩いていなかった。』と言う解説です。
 疑問になっていた他の絵の写しなのかどうかを決定付けるもので大変興味をもって読みました。但しその本の著者はくどいほど広重を貶すものでない、広重の才能は認めると記述している。
また、それによると『元絵の作者は司馬江漢で江戸時代の洋画で東海道の53次が広重以前に存在した。その絵を元に浮世絵風にしたのが広重である。』と言う説である。
当時の絵の具の材料分析や落款の印字など本物で広重が描いた時代の前に存在した根拠になっている。
 その絵の出所は平成3年で岐阜の旧家から出てきたと言うだけでそれ以上の細部は記載されてない。これだけではウーンと唸りたくなりますね。兎に角司馬江漢の作品は贋作が多く、美術界では信用されにくい人物だそうです。 日本の美術界の判断は偽物と決め付けているがこれはおかしい,正しい評価をすべきと訴えています。現時点ではあとは読者の判断にお任せると記されております。

 では、司馬江漢とは何者かとWebで検めて調べましたら、あるホームページでこの論争についての解説があり本件で紹介した内容に反論しているもでした。  さーどちらの言い分が正しいのかハッケヨイですね。
 私見ですが結論を求めるならば早く科学的な画材、絵の具(当時の油)元素分析、レントゲン写真、赤外写真などなどを駆使して判断を仰ぐべきと思っています。
絵にDNAが在ればよいのですが、決論が出ると他に困ることがあるのでしょうか??。 
写真は広重の浜松(冬枯ノ図)これと同じ構図の画が存在する(司馬江漢作?)



 

8.謎の「6本指の足」です


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写真は有名な三島と日本橋の画ですが6本指の人物は?その気で見ると3人いるようだ。


広重の東海道53次の版画は天保3年冬から4年に掛けて描かれ、宝永堂の竹内孫六と鶴屋喜右衛門が共同で刊行し天保5年に売り出され爆発的な売れ行きだったそうです。天保5年(1834年)は天保の大飢饉の真っ只中で今から173年前になります。
「6本指の足」とはS59年4月9日(1984年)の新聞に掲載されたもので、慶応大の人文地理学者西岡秀雄名誉教授が発見されたそうで、その間150年間近く誰も気がつかなっかたのです。
それではその絵は何処の所が知りたいですね。全部で7枚あるそうです。
過去に掲載しました1、日本橋 2、戸塚と 3、藤枝 4、御油 5、赤坂 6、水口 7、三島の絵と言うことです。
私も早速図書館でA3ほどの大きさの物で確認しましたがその内はっきりと6本指が確認出たのは4枚ほどでした。
 なぜ6本なのでしょうか?。
1.一番単純なのは偽物と本物を区別するため仕込まれたものである。
2. 次は彫師のミスか、諧謔(おどけ、ユーモア)の説もある。
3. 広重の道教の神仙思想によるものとの説があります。
  六指とは上下、東西南北を指し、中国の絵には6本指の仙人が書かれているのも在るそうです。
参考  『安藤広重のナゾ』中石 瑛氏(里文出版)




9.広重150年記念展

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   謎の多い6本指の絵

下の絵は拡大したものです。


  
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 2007.7/27〜8/19まで横浜桜木町近くにある神奈川県立歴史博物館にて歌川広重没後150年記念として広重が描いた日本の風景「広重展」が開催されていましたので早速、東海道五十三次(宝永堂版)を見に行きました。
 疑問になっていた他の絵の写しなのかどうか。広重の独創的なもので写実的また極端までな強調を取り入れた絵画手法、庶民的的な可笑しさユーモアを取り入れた画法等いろいろ論議の多い所です。「東海道五十三次」では今まで見たことない目次録や53次をセット売りした時の紙袋入れなど珍しいもを観賞できました。(残念ながら写真は禁止)疑問点をズバリと解決すべく展示は有りませんでした。
 しかし、館内の大きなパネルで『御油(現在の愛知県豊川市)の旅人留め女』 が掲示されていました。そのなかの女の足の指を数えると6本指で間違いありません。先々月に書いた記事の内容の確認が出来ました。  館内のボランテアの説明者の方はご存じないようでした。
 帰りに売店で関係する本を買い求めました所、また新しく(私には)謎が見つかり興味を持ちました。疑問点は益々深まりそうです。今回の展示は「金沢八景」「東都名所」などの摺り絵も展示されています。
後期は8/23〜9/17となり別の題材で「広重展」が開催されます。

写真は御油の版画の拡大でも足の指は数えられませんが下駄履きの女の足です



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