目次

NEW  B1のピックルボールの紹介は仮の試行版です。

                   ごゆっくりどうぞ 上覧の目次をクリックして各ページ開いて下さい




          徒然人

        n.chanの独り言  






参考文献
「東海道昔と今」保育舎 

「広重と歩こう東海道五十三次」小学館

「街道テクテク旅」NHK) 

「広重東海道五十三次の秘密」NONBOOK
         
ほか各地の案内資料など



下記も見てください


リンク先


55東海道を行く  その1

広重の版画


55東海道 総集編 その2

旧ホームページの東海道のいろいろ謎の多い情報です。



55東海道全編55巡り その3

前半の濱松までです。












55(GOGO)東海道を行く     その-4

これは広重の【55東海道編55巡り】です。



このぺージは後半で31番目の舞阪から55番目の京都三条大橋までです。


安藤広重の東海道の版画は有名ですね。

その版画の風景は東海道の宿場の場所とはちょっとずれています。

そんな原画の場所を求めて東海道を旅して現在の風景を写真と記事で記録をしました。


現風景の記録を残しながら順次広重の東海道53次(55箇所)を追って旅の写真を記録し2006.8日本橋からスタートし2009.10に京都三条大橋にたどり着きました。 


下は好きな内の5枚

           

http://homepage2.nifty.com/n-chan/img296.jpg http://homepage2.nifty.com/n-chan/img298.jpg http://homepage2.nifty.com/n-chan/img294.jpg  http://homepage2.nifty.com/n-chan/img292.jpg 

 46番目 庄野(白雨)      49番目 坂之下(筆捨嶺)    7番目 亀山(雪晴)       17番目 由井(薩捶の峰)   16番目 原 (夜の景)



55(GOGO)東海道として、広重の原風景はとその再現と

今日の風景を追ってみました。





31/55  舞阪  (今切真景) 



31/55舞阪(今切真景)

舞阪は浜名湖の東側で遠州灘と接する。画の杭は波除けや潮除け

とも言われている右遠くに富士山も描かれている。

 
旧東街道の松並木が印象的でした


舞阪旧道は整備され松並木と東海道の各宿場のモニュメントがある。

  31  /55は舞阪(今切真景)


 江戸時代にはこの場所は今切りの渡しと言われて

いた。今切りとは一寸変わった名前ですね。渡しは

船で対岸にわたる船宿が有ったことで分かります

が、今切りとは何でしょうか?

その昔は湖と遠州灘は陸地で区切られていたそう

です。1498年(明応7年)の津波と地震で土砂が決

壊して切れてしまったと記録にあります。その切れ

たところを今切りと言う様になったそうです。

      




姫街道に付いて

姫街道と言うのがこの辺に今でも残っています。今切りの渡しは

地震で海と湖がつながり土地が切れたことに由来しますが、あま

り縁起の良い名前で無く当時の女性は縁談が切れること嫌いこの

街道を通らず浜名湖の北の街道を使ったようです。

実際はこの関所が厳格に「女改め」が行われ女性は屈辱的な扱い

がなされたと、また船で渡るこ とも身の危険があったようで舞阪を

嫌ったようです。その街道が姫街道と いわれる様になっ たとされ

ています。篤姫も通ったことがあるようです。今回は徒然人は行き

ませんでしたが機会があればい一度たずねたいですね。

東名高速道路と浜名湖の間を通る街道で浜松から三ケ日〜嵩山

〜御油に抜けます。


 32/55   荒井 (渡船之図)



32/55 荒井(渡船ノ図)

対岸に見えるのは荒井の関所か、杭のようなもので囲まれた建物が描か
れている。

帆を揚げて流しを立てているのは大名船。後ろの船は帆がムシロのよう
なもので

船頭は必死に漕でいる。中の人物は中間(チュウゲン)達で1人は欠伸を
している。

細かな仕草まで描いていますね。


           

32/55 荒井(渡船ノ図)



 前月の舞坂でも書きましたが舞坂から当時は船で約1里
を渡ってこの荒井の関所に着くのですがこ
の関所は箱根
の山の関所と同じように大変厳しい所だったようです。

海の関所であり東海道の二大関所の一つで「女改め」が
行われ女性は嫌がったようです。

荒井より白須賀の宿へ行く途中の山から遠州灘を見下ろ
すことが出来るところから汐見坂といわれた。JR東海道線
の岡崎に近いところです。


               

                                 関所復元場所の近くの渡船場。  復元された関所跡の戸船場。   関所広場で消防の訓練中   入場料400円で関所の様子も見学出来ます。                            埋め立てられていたが平成14年湖岸と渡船場の一部が復元されました。

                        


33/55  白須賀(汐見坂図)





33/55 白須賀(汐見坂図)

      


荒井より白須賀の宿へ行く途中の山から遠州灘を見下ろすことが出来るところから汐見坂といわれた。

JR東海道線の岡崎に近いところです。

 白須賀(汐見坂図) 33/55

遠近感がよく出ている絵ですね。近くの山を大名行列が通っているのは

箱根の構図と一寸似ていますね。海は遠州灘で沖合いには帆かけ船、

浜の近くには漁船が描かれている。浜の三角形の造作物はなんだろうか?

網を干すものと言う解説も有りましたが調査不足で良く分かりません。


               

                東海道より遠く遠州灘を見る。                                      新居関所の近くに有った旅籠で今では資料館になっている。

                           山と海岸の間には潮見バイパスが走っていた。                創業ははっきりしていないそうで記録からは元禄16年(1703)

                           この道を大名行列も通っていたのであろう。                      紀州藩の御用宿となっていた。(パンフレットより)



34/55  二川(猿ケ馬場


 


34/55 二川(猿ケ馬場)


絵柄はあまり特徴的なものが見られませんが、松林と御茶屋のかしわ餅の

看板があります。

中に描かれている人物は三味線を持った二人と杖を持った女の3人で、

瞽女(ごぜ)と呼ばれた目の不自由な旅芸人の一行です。
当時は旅のエンターテイナーとして関所なども自由に通れたと言われていま
す。

 

34/55 二川(猿ケ馬場)



 新幹線では浜松と豊橋の中間にあたるところが二川です(東海道本線の二川駅)副題の猿ケ馬場と書かれているのでその昔、馬の飼育や訓練がされて所と自己流に解釈していましたがこれは間違い らしい。

訪ねた所にはそのような所は有りませんでした。

名物は柏餅だそうです。広重の絵の中にもかしわ餅の、のぼりが描かれています。

参考資料によるとこの「猿が馬場」と言う名称は真為はとにかく豊臣秀吉が命名したのではないかと記されています。

秀吉が小田原攻めの時この地で柏の餅をたべ、戦の後再びここを訪れ「猿が婆の勝和餅」と名づけそれが後々「猿ガ島馬場」になった。

(「広重と歩こう東海道五十三次」小学館より)


         

   旧東海道には版画のような所は見当たらず。   資料館にはいろいろな資料がありました。     仁川本陣、資料館立派でした。


35/55 吉田 (豊川端橋)



 


         

35/55 吉田(豊川端橋)


 吉田は明治以降は豊橋となった。

橋は吉田橋、川は豊川でその昔は伊勢湾の船が出入し交通の要所であった。

現在は公園になっていますが吉田城も見ら

れます。

 この絵についてはリンク先に謎の1つとして 開設しました。

 55東海道 総集編 その2 の中の

  2.広重の『著作権侵害』 ページです・

35/55 吉田(豊川端橋)

川と吉田橋をお城の改築らしい足場から遠くを見ている人描いている。

の画は葛飾北斎の「富嶽三十六景」の影響を受けていると言われている。

調べてみましたが一番構図的に似ているのは「江都駿河町三井見世略図」

で今の三越と富士、大工、凧を描いたものかと思いますがどうでしょうか。

 


          

       公園から見る吉田橋                  版画に見る城の屋根先から        公園から見た吉田城 広重はこの左から見た

        



36/55  御油 (旅人留女)



36/55御油(旅人留女)

街道の旅籠が連なっている。そこへ旅人が二人、強引に飯盛り女(留
女)に

首の荷物を引っ張られ引きずり込まれている。

なんともユーモラスな画ですが商売のたくましさも感じられます。
また、広重はスポンサーや摺師、彫師などの名前を看板などに

しっかり(チャッカリ)と入れている。

当時の旅の夕刻の風景と声が伝わってくるような画ですね。

隣の宿赤坂とは2km弱です。客の取り合いも激しかったのでしょう
か。

       

36/55御油(旅人留女)


『御油や赤坂吉田がなくば、何のよしみで江戸通い』 『御油や赤坂吉田がなけりゃ、親の勘当うけやせぬ』 御油の両隣の宿場である吉田、赤坂を歌った2つです。

当時の旅人の人情?風情を表しています。

御油や赤坂は古い街道の保存にも熱心な姿が伝わってきます。

訪れた時の地元の新聞記事には御油の松並木の保存運動動として、御油小学校の生徒が松の木の樹勢復活の手入れをしていることが紹介されてました。

 


            

              街道筋の家並み                   きれいな御油の松並木、国の指定天然記念物

                             御油の小学生が育てている。275本が現存している。


37/55 赤坂 (旅者招婦の図)


赤坂(旅舎招婦ノ図)37/55

当時の旅籠の中の様子を描いています。襖と障子で仕切られた

部屋を空けてそれぞれの様子を表現豊かに描いていると思います。

風呂上りと思われる肩に手ぬぐいを掛けたた男、煙管で煙草をふかし

横たわる人、お膳を運ぶ女、鏡を覗き込み懸命に化粧をする遊女、ア
ンマ

などなど多様な仕草を描いています。

引き込んだ客へのサービスも御油と競い合っている様なことが連想さ
れます。

れに大きなソテツの木を画面の中央にデンと置いている印象的な画
です。





37/55 赤坂(旅舎招婦ノ図)


赤坂は当時の東海道の中でも御油と共に大変な賑わい栄えていたようです。

代官所、本陣、脇本陣、問屋、旅籠とそろっていた。

また、飯盛り女、遊女を抱え繁栄していた。     

街道の記録の紹介や宣伝に行政も積極的に参加されているようです。



            

     当時の面影の残る旅館でです。            旅館大野屋は市の指定建物

    大正年間に再建したが、H29年に遂に廃業と聞きました。  浮世絵に描かれた旅籠らしい。1716年開業。


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      赤坂宿のソテツ                版画の真ん中のあった蘇鉄の木とその解説

 浄泉寺境内にあるソテツは広重の画に

描かれていたもので、道路拡張工事で移動した。
 樹齢推定260年。高さ3m。周囲4.6m。


                    

38/55 藤川 (棒鼻之図)





38/55 藤川(棒鼻之図)



藤川は日本橋から数えて38番目になります。

江戸の後期には本陣、脇本陣が一つと旅籠36戸間屋場1戸他302戸があったそうです。

38/55 藤川(棒鼻之図)

先ず表題の「棒鼻」とは「宿場のはずれ」の意味です。

この画は八朔御馬献上と言う江戸幕府が朝廷に馬を献上するための行列です。

諸説によると広重は江戸から京の旅はこれに同行したとされています。

(異論もあり)53次の画題はこの時のスッケチが元となっているそうです。

御幣を付けた馬が二頭と土下座をしているのはお役人や旅人?。

端っこには猫や子犬らしき動物がいる。何を意味して描いたのでしょうか。

当時の画風とか・・・・。


http://homepage2.nifty.com/n-chan/img471.jpg          http://homepage2.nifty.com/n-chan/img473.jpg    

                  1.藤川西棒の鼻          2.東棒の鼻の高札          3.藤川(棒鼻之図)        4.藤川脇本陣


   5.藤川宿文化百選

http://homepage2.nifty.com/n-chan/img474.jpg  

1.藤川西棒鼻旧道の小学校の前にあった。こちらが藤川宿の西側でこの先が岡崎となる。

2.解説によれば平元年ころから東海道ルネッサンスの機運が盛り上がり、広重が書いた

  藤川と言えば東棒鼻であり、古い資料から確かめられた場所らしい。

3.藤川宿の東棒鼻 広重の画の場所です。
  街道のはずれを示す棒鼻と高札の解説もしっかり整備されてました。

4.藤川脇本陣(資料館)

  藤川宿は慶長六年の成立。町並みは約1kmほどあったそうです。
  現在の藤川駅がほぼ真ん中になっています。

5.藤川宿文化百選

  この近くの東海道の宿場はブームもあり文化財としてよく整備されており
  東京のほうとはだいぶ違います

     


39/55 岡崎 (矢矧之図)ヤハギノズ




39/55 岡崎(矢矧之橋)


岡崎宿は東海道の53次の中でもその規模が大きな宿場でした。また、岡崎27曲がりと言い曲がり角の多い町並みで有名でした。広重の画は宿場の西側のある八作橋を描いている。

訪ねたときは大掛かりの工事中でした。

39/55 岡崎(矢矧之橋)

岡崎(やはぎの橋)は橋を渡る大名行列の絵柄です。

広重がよく描いている題材です。遠くの城は岡崎城であり、

岡崎宿は二十七曲がりと言われ町並みが複雑に作られていた。

この橋のところで秀吉(日吉丸)が蜂須賀小六が出合った事で有名ですね。

現在は矢作橋となっている。橋の位置は現在とは少し離れたところに

有ったようです。画の構図は川の西岸から描いています。

 


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    矢柵橋遠望                  川岸にあった古い商家             橋付近の八幡宮岡崎八幡宮(山口県)、

(原画紛失の為アナログ画像からコピー。ボケてます)                         伊賀の八幡宮とは違います。川岸にあった小さなお宮です。


     


40/55 池鯉鮒 (首夏馬市)



40/55 池鯉鮒(首夏馬市)

馬が数多く描かれている。馬市の様子を描いたものだが、広重がこの
地を

訪れたのは8月頃とされており馬市の4−5月ではない。

「東海道名所図絵」に記されている内容から画いたとされている。

また遠見の松の所に小山が無いのは、初版から小山を除いた版画と
されています。



40/55 池鯉鮒(首夏馬市)


池鯉鮒(首夏馬市)は,ちりゅう(なつはじめのうまいち)とよみます

現在は知立市です。

昔、毎年4月25日に始まり5月5日まで開かれた馬市の様子を描いています。

池鯉鮒の名前はこの地の明神社の池に使者として、鯉と鮒が多くいたところからきたそうです。



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知立 街道脇にあった池周りはのどかな街道で綺麗でした。   整備されている松並木の街道でした。  

写真原画紛失の為、画質が落ちてます。

     



41/55 鳴海 (名物有松絞図)





       41/55鳴海(名物有松絞)

有松絞を商う商家を2軒描いている。手前の2人は婦人で籠の中も女性で
ある。

また、後方の馬に乗っている人も女性です。

店の中には商品の着物と話し合っている2人を描いている。

暖簾には竹内と版元をPRし、スポンサーに気配りをしている。




      41/55鳴海(名物有松絞)

鳴海は知立から約11kmにある宿です。

染物で鳴海絞り染めと言うのが有名です。

鳴海の宿の手前4kmの有松村はその絞
染の産地だそうです。

 

         http://homepage2.nifty.com/n-chan/img478.jpg                    http://homepage2.nifty.com/n-chan/img480.jpg

    街道の家並みと商家。写真原画紛失の為、画質が落ちてます。          街道沿いあった古い商家。




42/55 宮 (熱田神宮)




42/55 宮(熱田神宮)

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の草薙の剣が祭られている宮(熱田
神宮)

で行われた神事の馬追いを描いている。半纏の模様は有松模様と
のこと。

煙は夕方(宵)を表している。



42/55 宮(熱田神宮)


宮(熱田神宮)は門前町であった。今は名古屋市熱田区です。桑名へは海上交通で港が使われ桑名へは七里(28km)の海上路が使われた。現在の名古屋港です。

宿場としても大きく、本陣が2、脇本陣1、旅籠は248軒があった。参勤交代の大名や熱田神宮詣での人で賑わったようです。

 

 
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                                     大鳥居 ここで馬追の神事が行われたのか?                          熱田神宮 境内                                              先ずはお参り


43/55 桑名 (七里渡口)



桑名(七里渡口)43/55

宮から海路で桑名の七里の渡 港に入ってくる船を描き、その先には
桑名城です。

 



43/55桑名(七里渡口)


桑名は宮から七里の所で、港の絵が描かれています。今は復元され往時を偲ぶことが出来る。

画中の城は松平氏11万石の桑名城です。

 

今月の写真も写りが悪くすみません(次号の四日市まで原版紛失の為です)



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家並の途切れた所にあった七里の渡跡             七里の渡 史跡                  53次七里の渡し説明




44/55 四日市 (三重川)



四日市(三重川)44/55

なんとも滑稽な絵です。橋の上では風に向かってたたずむ人、道の木も

風に煽られ、下では笠を飛ばされ、追いかける旅人を描き動きのある絵です
ね。

遠方の柱は湊に係留されている渡しの船です。  


/


 44/55 四日市(三重川)

 ここから宮(熱田神宮)へは10里(40km)の渡しがあった。

桑名からは七里(28km)の海上路があり四日市と桑名は競合していたようです。広重の絵で見ると三重川(三滝川)に架かる橋が主体で、四日市の湊は右端の船の帆柱で想像が出来ます。

宿場は本陣が2、脇本陣1、旅籠は98軒があった。

名前はもちろん当時、四の付く日に市立ったことからです。




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 三滝橋 場所が分からず地の人に聞いてたどり着き、            三滝橋では立派な石橋で歩道には絵が埋め込まれ装飾されてました。

  賑やかな国道からちょっとずれた所にありました。


    

45/55   石薬師  (石薬師寺)






石薬師寺の門前を描いている。前の畑では稲刈りが終わり稲藁が積
まれている

。バックの山も美しい姿で、静かな秋の風景ですね。
前の四日市の絵とは対照的です。






45/55 石薬師(石薬師寺)

四日市から10.9kmが石薬師で、名前の由来は弘法大師が自然の石に薬師の像を彫ってこの地の信仰の対象として残った。

その寺を石薬師寺と言う様になり、この地の名前にもなったと言われています。

寺は国道1号線の陸橋の脇にありました。

石薬師町は鈴鹿市ですが、関西本線の河曲駅と加佐登駅の中間ぐらいの所でした。宿場としては小規模で休憩どころとしてあったようです。

 

今月の写真も一部、写りが悪くすみません (四日市まで原版紛失の為です)




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      石薬師 正面                                石薬師寺

広重の絵と同じ方向からた薬師寺門前。 訪れた時節は境内に紫陽花が咲いておりました広重の絵ではこの道に馬が1頭たたずんでいる。




46/55庄野(白雨)




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庄野(白雨)46/55

広重の53次の中で傑作と評価されています。夏の急な雨(白雨)の中を

旅人や籠担ぎが急いで坂道を走っている。躍動感のある絵で、ゴッホな

にも影響を与えている。手前の傘には「53次」の文字と「竹のうち」と他
の絵にも見られるPRが埋め込まれている。






46/55 庄野(白雨)


庄野は三重県鈴鹿市です。前の薬師師からは3kmの所。

次の亀山へは8km。たずねた街道筋は今でもその面影を感ずることが出来ました。

白雨とは広重の絵の中の横殴りの雨のことで独特の描き方ですね。

宿場は本陣が1、脇本陣1、旅籠は15軒があった。

東海道の宿場としてはもっとも遅く出来、これで東海道の53次が完成をしたそうです。


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        庄野の宿場に入る坂                   庄野宿資料館             川(鈴鹿川の支流?)の付近と紹介

写真の交差点が宿場の4つ角です。            市の文化財でもある資料館は保存も        された所のひとつです。

画材の場所の近くとい旧小林家の広重の書いた     兼ねているうですがいろいろな資料が展示      ちょっとイメージとは違いまが。

場所は何処かは不明。地元の人に聞きましたら、    され説明も時間切れまぢかの中丁寧にして          

この場所か、もう少し離れた宿場のはずれの橋の    頂きました。 

近くとの話でした。           


 

 47/55  亀山 (雪晴)



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47/55 亀山(雪晴)

なんとも綺麗な冬景色ですね。この前の庄野は夏の雨の絵でした。

広重の絵は季節感たっぷりに描かれていますが反面、想像された絵とも言われ
ています。当時、東海道を何回も広重が歩いた記録はありません。

16/55蒲原の雪景色もそうでしたね。




47/55 亀山(雪晴)

三重県亀山市本丸町でこの当時は宿場でもあり亀山城を持つ六万石の城下町でもあった。

城は山の上に在りますが、今は公園や住宅の取りまく中にありました。

道路沿いに江戸の道の標識がありました。




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ネット奥が現在の亀山城です。           藩主交替の碑                     付近の門前の説明は宿場の解説と

周りはすっかり住宅街になっており     伊勢亀山藩主板倉氏と備中(岡山)                東海道の説明です。

山上の城のイメージはありませんでした。 藩主石川氏が1744年吉宗の終わり頃)に交代。

                


48/55 関 (本陣早立)




48/55 関(本陣早立)

大名の出立の様子を描いている。幔幕は大名の紋でしょうか、

広重の実家の田中の紋から図案化したとの解説もあります。

画の細部をみると提灯に広重の紋や幕の奥には当時の化粧品の宣伝

文句も書かれています。まだ、朝の暗い雰囲気が黒いい空の空間で良くわか
ります。



48/55 関(本陣早立)

関は亀山宿からおよそ6kmのところです。場所的には鈴鹿山のふもとで関所があったところです。江の逢坂の関、美濃の不破の関、と並ぶ関所で鈴鹿の関と言われた所です。

江戸の時代にはお伊勢参りの街道でもあり、遊女の多い街でもあった。本陣早立ちとは勿論、関の本陣を大名が朝早く旅立つことで、その様子を描いている。



1                                           2                                                  3                                                             4

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1.関 部分拡大右手に人の提灯は広重の紋が書かれている。画面左上の幕間に化粧品の宣伝板。幕の紋も創作らしい。

2.関 坂の下街道:街道には電柱もなく江戸時代の風情を残している。郵便局の所は当時の高札のあったところのようです。

3.国の伝統的建物群でもある。訪れる人も多くガイドさんも活躍していました。

4,古い街道に当時を思わせるような家並みが続いていました



49/55 坂之下 (筆捨山)



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坂之下(筆捨嶺)49/55

鈴鹿山から見た筆捨山で、きれいな風景です。筆を捨てた云われもわかりま
す。

しかし、広重は描いたのですね!!!。

茶屋から遠望の山を見る人、牛を引き連れて茶屋に向かう姿が描かれていま
す。

坂之下は勿論鈴鹿山の麓であることを示していますが、

訪ねたた所は坂の下でなく峠の嶺のようなところでした。









  49/55 坂之下(筆捨嶺)

筆捨嶺(フデステヤマ)とはどのような意味がある山なんでしょうか?。

関宿から6kmのところで山の中です。この坂之下の風景は場所は景色の良いところで現在の国道の鈴鹿山脈を越えるところにあります。

昔、狩野元信と言う画家もあまりの美しさに画にもかけず筆を下したと伝わっている所から筆捨嶺と言われています。 









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1.雨中の鈴鹿峠 :山の緑は緑濃く、谷は深く下の方には鈴鹿川が流れている。この下方に宿場があります

2鈴鹿峠の坂道より山を望む :訪れたところは、この地の馬子の歌資料館で聞いたところです。あいにくの雨模様でしたが雰囲気は有りました。

3.鈴鹿馬子の歌資料館近くの時代を感ずる民家

  馬子歌資料館にも入りました。歌の資料館?は名前だけで仲は東海道の各種資料やもありました。勿論馬子歌の資料は当然有ります。

4.坂之下案内版

 亀山市の提供。関東地区に比べ名古屋以降京都までは旧東海道の案内や地区の保存を強く感じます。



50/55 土山 (春之雨)



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 50/55土山(春之雨)

雨の土山と言われるように雨の中を行く大名行列を描いています。
この橋の場所は田村神社の所で、川は田村川です。
雨が細かく描かれ、川があふれるほど流れ、黙々と歩く?行列の様子が伝わ
ります。









 50/55 土山(春之雨)

鈴鹿峠を越えると近江の国いに入ります。いよいよ琵琶湖に近いところまで来たような感じです。

土山町は滋賀県甲賀市内ですが、雨の土山と歌に歌われるほどで雨が多いようです。

馬子唄では『坂は照る照る鈴鹿は曇る,あい(間)の土山雨が降る』と唄い有名ですね。

広重の画の副題名にも「春の雨」となっています。

土山宿は今でもその当時の雰囲気が残って居る所です。いろいろな資料も沢山あり紹介しきれないほどです。




  1.                           2.                                  3.                                            4.

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1.大変立派な橋で下は田村川が流れています。当時の橋は幅二間(4.1m)長さ二十間(37m)  の橋でした。この先が田村神社

2. 案内による説明では、この橋は田村永代板橋で  江戸時代に架けられ(1775年)たものを復元しています

 ここを昔は宿場や神社へと往来した。 近くには高札や番所が有ったそうです。当時の渡る費用は、幕府の用事や武士近くの住民、百姓はタダ。

それ以外の通行人、馬は三文だった様です。 

3.土山宿:古い街道で当時を思わせるような家並と土山の案内標識

4.田村神社境内

かなり広い場所で重厚な雰囲気があり静寂さも有りました。歴史を今に伝え残す町の姿勢が強く感じられます。商工会、観光協会、土山の町並みを愛する会などの努力に感謝いたします。



51/55  水口 (名物干瓢)



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この地は訪ねまわりましたが良くわかりませんでした。農家と大きな
木、

それに畑だけでは、分りかねますね。
絵柄は名産である「かんぴょう」を女性が3人が作っている。

近くをヒョコヒョコと歩いているには飛脚?、肩に着物らしきものを担い
でいる。




51/55 水口(名物干瓢)


土山より、11kmの所がみ水口(みなくち)です。

水口は近江近畿鉄道で水口石橋駅で近くには野洲川がなが
れてます。広重の画の場所が良く分からず、近くの役場の商
工会に場所を聞きに行きました。

観光の売りは宿場とお城のある町だそうです。

曳山祭りの山車も町の誇りだそうです。

次回9月号は52.53/55番目で京都の一歩手前の石部と草津
です。10月が大津と京都になります。



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1.水口神社近く  手前が畑で、大きな並木が有ったところ。広重の画の所らしい雰囲気は有りましたが??です。

2..水口神社近く  訪れたところは、役場で聞いたところに近いところですが良くわかりませんでした。

3.水口曳山祭の案内  山車祭りは見ませんでしたが、県の無形文化財で豪華さが伺われます。

4.水口から次の宿へ行く途中にある「横田の渡し」の常夜灯です。高さ10,5mで文政5年(1822年)に作られ,道中でもその規模は唯一の大きさです。また横田の渡しは、当時京都方面から東の伊勢神宮などに行くにはここの川を渡らないと行けなかったようです、その意味で要衝です。



52/55  石部(目川之里)



52/55 石部(目川ノ里)

この画は「東海道名物絵図」から借用した言われています。

茶屋は名物田楽豆腐を食べさせる「いせや」を表しています。

店の周りには馬をとめている人、踊りのように振る舞う五人衆、

笠をかぶり先を行く人、大きな荷物を背負い往く二人姿など当時の

旅の様子が伺えます




52/55 石部(目川ノ里)

滋賀県の甲賀石部町です。次の宿場である草津にも近いとこです。

現在の116号線の街道は道幅も狭く当時の様子が想像できます。


名物は「いせや」の田楽豆腐で今でもその場所は残されていました。

近くの目川の土手にもよりましたが特別なものは見当たらず、工事をしておりました


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1 元伊勢屋(岡野屋)、京伊勢屋(西岡屋)、古志屋(寺田屋)の三軒であった。写真は「京伊勢屋」です

2 名物田楽茶屋 京伊勢屋の説明によりますと、旅人の休憩所として江戸幕府によって立場茶屋がおかれた。

地元の食材の「菜飯」「田楽」が東海道 の名物であると記されている。元伊勢屋(岡野屋)、京伊勢屋(西岡屋)、

古志屋(寺田屋)の三軒であった。

3 目川の一里塚

4 目川 土手道の横を流れている目川の土手から見た遠山



53/55   草津 (名物立場



53/55 草津(名物立場)

「姥が餅」を振る舞う茶屋を見事に描いています。賑やかな店の中も多

の人の姿や、外は早籠が街道を急いでいる、また大きな荷物を杖をつ

ながら運ぶ人など実に細かくまた、躍動的に描かれています。

店の看板は「うばのちゃ」と読めます




53/55 草津(名物立場)

草津は東海道と木曽路の分岐点の所です。群馬の草津、大津は名前が同じですが勿論違います。次回はその大津と京都になります。

草津は京都から江戸へ下る(上る)時の要所の宿場でもあった所です。

現在でも町の中心地は賑やかで活気が有ります。副題の「名物立場」とは何んでしょう。立場とはこの地を旅する人に名物の「姥が餅」(うばがもち)を売る立場茶屋を表しています。立場とは今で言う道の駅の役目を持っていました。籠担ぎの人足が杖を立てて休んだ所から立場と言う語源が出たとの説もあります。

   



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1.草津追分 東海道いせ道と中山道の分岐点(追分)

2.旧東海道草津追分から見た東海道いせみち

3.草津宿昔の街道の面影が有ります

4.草津本陣跡 松平出羽守 宿と記されている

         

54/55  大津 (走井茶店)



54/55 大津(走井茶店)

この画も「東海道名物絵図」から借用した言われています。広重の後半の画は

特に「東海道名物絵図」からの引用が多いそうです。
実際は行かなかったとか、書くこと自体に興味が薄れ借用が多くなった。

などいろいろなことが言われています。しかし、広重の独特なとらえ方や細かい

描写は他の人には出来ないものが有り素晴らしいと思います。画面の左側には

清水があふれんばかりの井戸が描かれ、そばで魚屋が桶の中の魚を洗っている

のだろうか、米俵荷物を引いた牛車が3台。またお店の中は荷を下ろした男と

巡礼の女性などきめ細かな描写が見られます。後ろの山は逢坂の山だそうです。

摺り方でこの山が無いのも有るようです。 



 



54/55 大津(走井茶店)


とうとうこの旅も終わりに近づいて来ました。京都の一つ手前、大津です。大谷町の茶店を描いています。

走井は井戸の事らしい。その井戸には山からの水が走り下って沸き出でている事から走井となっている。

大津のこの地は大谷町で草津からおよそ14kmの所です。

京阪電車の大谷駅が有ります。

   



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       大谷茶屋前奥の茂みが大谷茶屋                            国道1号線東海道と京阪電鉄                            大谷駅京阪電車の小さな駅でした                    元祖走井餅本店の碑細い街道に有りました



55/55  京都 (三条大橋





55/55 京都(三条大橋)

京都の三条大橋の絵柄です。橋の上を渡る都の人々傘をさす武士や

日傘をかざす人、旅衣姿の女性、馬に荷を乗せたり、荷籠を担ぐ人、

川を覗く人、茶売りの人など、さまざまな姿を描いています。

この橋は天正一八年(1590)に秀吉の命により改築され日本で初め

橋杭を石で造ったとされています。しかしこの画は木造らしき橋杭で
すね?。

広重は1800年代なぜ・・・・・この辺が広重が実際には旅をしてな
い、

などの諸説を生む一つの原因でもあります。遠見の山は東山や比叡

と言われています。手前が京都の中心地になります。






  

55/55 京都(三条大橋)


東海道の旅も終着の京都三条の大橋に来ました。

京都については今さら語るのも必要がないのですが、徒然人はこの橋の真上に立つことは初めてでした。

近くのお店や繁華街を夏の暑い京都を歩き回りました。そして、取材の後は嵐山近くの宿に入り、あーこの旅も一区切りついたなーと湯の中で日本橋からここまでの景色を思い浮かべながら一寸探しきれない所や、思い出多いところを回想しました。

さーて、これからの事はビールでも飲んで思いめぐらそうと、夕食の鱧の料理に舌鼓の一時でした。   



長きにわたってこの徒然ホームペジで東海道を紹介いたしました。ご愛読ありがとうございました。

            完




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三条大橋それほど大きな橋ではなかった        弥次喜多道中安全祈願条大橋の横に置かれています、      加茂川に並ぶ桟敷

大橋の擬宝珠の傷説明                                    なぜか表札には三条小橋商店街となっている        

池田屋騒動の時に橋の上で切り合った時の

刀傷と言われている


          


(その4)

31/55〜55/55の広重の版画









31 舞阪 今切真景 32 荒井 渡船ノ図


33  s白須賀  汐見坂 34 二川 猿ケ馬場 35  吉田 豊川端橋 36 御油 旅人留女

37 赤坂 旅舍招婦ノ図 38 藤川 棒鼻ノ図 39 岡崎 矢矧之図(ヤハギ) 40 池鯉鮒 首夏馬市

41 鳴海 名物有松絞 42 宮 熱田神宮  43 桑名 七里渡口 44 四日市 三重川

45 石薬師 石薬師寺  46 庄野 白雨 47 亀山 雪晴 48 関 本陣早立

49 坂之下 筆捨嶺 50 土山 春の雨 51 水口 名物干瓢 52 石部 目川之の里


53 草津 名物立場 54 大津 走井茶屋 55 京都 三条大橋



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