目次

NEW  B1のピックルボールの紹介は仮の試行版です。

                 ごゆっくりどうぞ 上覧の目次をクリックして各ページ開いて下さい




           徒然人

        n.chanの独り言  




参考文献

「東海道昔と今」保育舎

「広重と歩こう東海道五十三次」小学館

「街道テクテク旅」NHK) 

「広重東海道五十三次の秘密」NONBOOK
         
ほか各地の案内資料など



下記も見てください



リンク先


55東海道を行く  その1

広重の版画


55東海道 総集編 その2

旧ホームページの東海道のいろいろ謎の多い情報です。



55東海道全編55巡り その4


後半の京都までです。




55(GOGO)東海道を行く    その-3

これは広重の【55東海道前編の55巡り】です。



このぺージは前半で、1番の日本橋から30番目の濱松です。



安藤広重の東海道の版画は有名ですね。

その版画の風景は東海道の宿場の場所とはちょっとずれています。

そんな原画の場所を求めて東海道を旅して現在の風景を写真と記事で記録をしました。


現風景の記録を残しながら順次広重の東海道53次(55箇所)を追って旅の写真を記録し2006.8日本橋からスタートし2009.10に京都三条大橋にたどり着きました。     


下は好きな内の5枚 

http://homepage2.nifty.com/n-chan/img296.jpg http://homepage2.nifty.com/n-chan/img298.jpg http://homepage2.nifty.com/n-chan/img294.jpg  http://homepage2.nifty.com/n-chan/img292.jpg 

 46番目 庄野(白雨)      49番目 坂之下(筆捨嶺)    7番目 亀山(雪晴)       17番目 由井(薩捶の峰)   16番目 原 (夜の景)





55(GOGO)東海道として、広重の原風景はとその再現と

今日の風景を追ってみました。


これ以降は東海道55ヵ所を訪ねた時の記録です。 

未だ未完成ですが少しずつ復元してます。ごゆっくりどうぞ。



1/55  日本橋  (朝の景)

 


。 








江戸日本橋の上には高速道路が走り面影や情緒はない、

最近になり景観を元に戻す動きが出てきた。  


 現在の日本橋

   

                                                                                                             


2/55   品川(諸侯出立)












今の品川駅の近く八ツ山通りは

高層ビルやマンションで埋め尽くされています。



     

       



3/55  川崎(六郷)









東京都と神奈川県の境を流れる多摩川(六郷)の橋は国道であり、

京浜工業地区の産業道路でもある。

川岸にはホームレスの人たちのものと思われる家も建っていました。

だいぶ整理されてきてはいます。



                      



4/55  神奈川(台町



 

 


品川の絵に似てますが一寸違います。

今の東神奈川駅に近い所で青木橋です。

その昔近くで「生麦事件」があったところです。



生麦事件(なまむぎじけん)は現在の横浜市鶴見区生麦の近くで、薩摩藩島津久光の行列にイギリスの騎馬が乱入し、藩士が殺傷した事件です。


          青木橋のある歴史の絵図

   



5/55保土ヶ谷(新町橋)帷子橋<カタビラハシ



 



帷子とは昔河口の片側は平らだったので片平と呼ばれていたのが帷子となったらしい。それでは帷子とは?夏に着る朝や絹でできた一重の着物、転じて薄いそれが平の意味になったと想像します。

(なぜそうなったのか本当の事誰か教えてください!!)


絵にある二八は蕎麦屋で確かに橋のふもとに蕎麦屋が今でもあります。

絵と同じ店かは確かめることが出きませんでした。

ご参考:帷子川(カタビラ川)は2年ほど前にアザラシの玉ちゃんが一時住み着いていた川です。




         

        帷子橋                近くの商店街                                    帷子川                                               (アザラシの玉ちゃんが一時住み着いていた)




6/55 戸塚 (元町道)




今号は神奈川の戸塚を訪ねました。

江戸時代の時代は日本橋を7つ (今の午前4時ごろ)に旅立ち健脚の旅人は戸塚あたりで1泊と なったらしい。もう鎌倉藤沢は近い。


広重の絵に見える橋は吉田橋で看板には「こめや」とか講札の文字が見られる。大山 とか江ノ島などのお参りに行く人も泊まったと推測されます。


  


現在の戸塚吉田町付近 国道 1号線に沿ったわき道




7/55 藤沢 (遊行寺)



今号は戸塚の次、7番目の藤澤(遊行寺)です。

今は藤沢と言えば江ノ島と一対で東京、湘南方面の海水浴場、鎌倉も近く観光で賑わう所です。

江戸時代は門前町で広重の 絵の鳥居と橋は何処か遊行寺の近くの藤沢橋らしい。久しぶりに江ノ島や遊行寺、そして江ノ電で鎌倉も訪ねて見ました。


東京と神奈川の境川に架かっている橋の図柄である。現在の藤沢橋

                

川に架かる橋は幾つかありますが今回は弁天橋が似合うと思い写真とした。

  小さいこ ろに見た時は木製で赤く塗られていた記憶がありますが?


                                                      下の3枚は藤沢の市内で撮影

                       




8/55 平塚 (繩手道)



回の8番目は平塚(縄手道)です。

縄手道と言われていますが縄手道とはどの様な意味でしょうか。 絵で見ると沼(川?)が描かれ遠くに円い形をした山その端に富士山が見えています。その中の曲がりくねった道に飛脚と駕 籠屋がすれ違っている構図です。縄手とは田の中の道。あぜ道。まっすぐな道の意味が あります。(広辞苑より) 丸い山は高麗山でもちろん現存しています。山の手前の沼はもしかしたら花水川か。今のJR東海道線の平塚駅と大磯駅の 中間にあるこの川には花水橋が架かっています。  

平塚(縄手道)

縄手道に沼(川)遠くに高麗山と富士山がわずかに見えています。 人物は飛脚や駕籠屋と3人です。


        

  花水橋にて  

  橋の遠方に山は高麗山です。富士山は見えませんでした。 

  



 平塚 要法寺  

平塚の地名の由来が記載されています。 天保 11 年幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿」の

中に言い伝えで桓武天 皇の3代子孫高見王の娘政子が旅の途中のこの地で逝去埋葬され、

その塚の上が平ら になり里人が「ひらつか」と呼んできたと言い伝えらた一節があると記されています


 相州平塚鎮守   平塚宿春日神社 安産祈願 源頼朝の夫人政子安産とある。 要法寺とは隣同士です

    


 


 9/55 大磯 (虎ケ雨)



今回の9番目は大磯(虎が雨)です。

広重の絵には馬と馬子それに雨が描かれている。55枚の中で雨、雪が描かれているのは全部で4箇所ですがこの大磯はそ の中の一つです。

「虎の雨」とは 何を意味しているのでしょうか、物の本によりますと歌舞伎や浄瑠璃、狂言の「曽我物語り」の虎御前によせ てつけたもので虎の恋人の曽我十郎が弟と共にあだ討ちを5月28日に果たした。 その時の彼女の涙雨を思わせる。旧街道には大磯の松並木が見えますが海岸は一寸離れていた。撮影場所は松並木の面影が残っている所を写しました。

江戸からおおよそ65kmで大磯は9番目です。神奈川、静 岡の街道は松並木と富士山に代表されますがその松並木と馬 子、数軒の家並みを大粒の雨と共にあらわしている。表題の 「虎が雨」を大磯の浮世絵で広重は何を語ろうとしたのでし ょうか。城山公園、旧吉田茂邸、大磯のシーサイドホテルがあります。



 旧吉田邸近く(街道側より)  大磯旧吉田邸前の東海道 。松の木がまだ多く残っています。 街道の松並木は今でも残っている。

     



10/55 小田原 (酒匂川)




今回は神奈川の小田原(酒匂川)です。

小田原と言えばお城や提灯、かまぼこが有名。戦国時代は北条早雲がその威を 振るったが秀吉の刀狩りが実施された頃の1590年(天正18年)には秀吉に破れた。

その時の北条方の和戦の評定が長引きなかなか決定されなかった例えに小田原評定などあまり良くない意味の言葉もあり ますね。

酒匂川 徒歩渡しの川で大名駕籠が描かれている。川越人足 の費用は川の深さにより48文から94文と各種資料を調べ ると分かる。今の貨幣価値でおよそ1200から2400円 見当か?。背景の山は箱根と小田原の町並みとお城、遠くに 富士も覗いている。 次の箱根まではおよそ17km。箱根の山越えと関所が待っ ている。


  小田原城             さかわ川と平仮名で表記されていました     国道1号 遠くは箱根の山

    



11/55 箱根 (湖水図)





江戸幕府は湯元と三島に下る中間の芦ノ湖に関所を設け検問をした。

絵では山道を登る大名行列で江戸へ向うであろうか?。

岩山の険しさや芦ノ湖の彼方 に富士も見える。

(掲載の写真では見にくいのですが左側です。落款の下)

箱根八里とは小田原から箱根までの4里10町と箱根から三島までの3里20町であ
わせて約8里


今回は神奈川と静岡の境界となる箱根です。

温泉、保養地、芦ノ湖、ケーブルカー、点在するゴルフ場、美術館、など観光地として四季折々楽しめます。江戸時代の東海道の箱根は難所で関所もあり此処を通過することは旅人にとっては大変なことだったようです。また、いろい ろな話が語り伝えられているし、歌も「箱根馬子唄」や「箱根八里」がありますね。明治になって作られた滝廉太郎作曲の「箱 根八里」の歌詞は、そんな関所の険しい様子を(天下の険)や(万丈の山)とか(千仭の谷)の表現で、厳しいイメージを中国 漢詩に見られる誇大化に倣った詞ではないでしょうか。明治時代の若者を励ます内容とも言われています。箱根関所では「入り鉄砲に出女」といって、江戸幕府に逆らう人たちが江戸に鉄砲などを持ち込め無い様に監視し、また、人 質になっている地方大名の妻たちが逃げ出さないかなど、厳しい取り締まりが行われていたのだそうです。  

 
 

  箱根(芦ノ湖を望む)                                 箱根旧道            甘酒茶屋             箱根関所資料館

      




12/55 三島 (朝霧)





よく見ると広重の絵の灯篭は鳥居の前側。

島大社の鳥居が朝霧の中にかすんでいる。

馬上の旅人や駕籠の中の旅人共に顔が見 えない構図。

この方向だとこれから箱根に向かうのか。



いよいよ神奈川を超え静岡に入りました。 東海道の難所で関所もあるところの箱根を通過し、旅人は箱根の山から三島に下る道は視界も開け富士山も大きく望め足も 軽かったのではないのでしょうか(京から江戸へは長い登り坂)。

三島と言えば「ノーエ節」が在ります。

  富士の白雪ヤ ノーエ  富士のサイサイ  白雪ヤ朝日で解ける   解けて流れてノーエ   解けてサイサイ  流れて三島にそそぐ   三島女郎衆はノーエ   三島サイサイ   女郎衆はお化粧が長い   お化粧長けりゃノーエ  お粧サイサイ 長けりゃお客が困る 。(文言一部カットしてあります)

  十返舎一九の弥次さん喜多さんもこの三島宿で飯盛り女(女郎さん)と遊んだようです。この地は富士の湧水が豊かで近くに 名水百選の一つ「柿田川湧水郡」も街道脇のあり狩野川の源流の一つとなっている

  


鳥居の現状は内側です。 材当日は結婚式を終え たカップルや参加者で賑わっていました。

箱根から三島への途中一泊し金時山(坂田の金時)に登りました。快晴で富士山や箱根 の町、 山並みが綺麗でした。

金時娘さんにもご挨拶、乙女峠を下り芦ノ湖方面、三島へ出ま した。


    




13/55 沼津 (黄昏図)





月夜の道 子供連れの母親か、その後を巡礼姿の天狗の奉納額を背にした

人が宿の方向に歩 く姿、遠くに宿場と橋が見える。何となく不気味な感じ

がしますが、月明かりで救われて いますね。

 


三島を越して次は13番目の沼津(黄昏図)です。

絵の川は狩野川の支流黄瀬川です。旅する親子ずれと巡礼の旅人。背中に背負っているのはどこかの奉納をするのでしょう か、天狗の面の奉納額です。 天狗の面は猿田彦(サルタヒコ、サルダビコ)とも言われ日本神話の中で道案内をした神で伊勢五十鈴川に鎮座したとある。 道祖神でもあり月夜の黄昏の街道を旅すると親子と掛け合わせたのではないかと我流の推測をしています。





沼津(三園橋)

広重の絵は現沼津市内を流れる狩野川の支流黄瀬川と記さ れています。

解説書により差異がありますがこの写真の上流にあるの柿 田川説もあります。

この写真は狩野川に掛かっていいる三園橋 付近で本宿はもう少し上流となります。



14/55 原 (朝之富士)




美しい富士山だ。手前の山は愛鷹山。

登場人物は母子とお供富士を見返す姿に何を思っているのだろか、

畑の中は鶴が二羽ドジョウでも啄ばんでいる姿が描 かれている。

この地は当時浮島沼と言われた地帯で富士山からの伏流水も多い 所のようです。
 
富士の山頂が画面から飛び出している。強調する発想が面白い。


沼津を過ぎて東海道の海沿いの原(朝之富士)に来ました。

宿は沼津からは近く約6kmほど所で現在の静岡県のJR原駅から宿場は近い。

東海道の中でも最も規模が小さい宿であったそうです。 本陣も1軒旅籠25軒と記録されている。何といってもこの辺は富士の眺めと海に付きます。海沿いは千本松原で街道沿いは 温泉のボーリングもやっていました。






写真の撮影は歩道橋の上から見た富士山。道路上からは家並みが続き良い 場所が無かった。 原(蝶理付近) 原近くのすし屋の駐車場より 前の川は沼川。東町近く ビルの谷間からの富士

    



15/55   吉原  (左富士)




松並木の中を行く馬に乗った子供が三人とその前 を行く馬には荷物、

さらにその前を杖を付いた旅人 が描かれている。

この図で道の左に赤富士が見えて いますが左富士と言われていて有名です。





日本橋から15番目の富士市の吉原は現在は製紙会社が多くあり地場産業と なっている。

広重の絵では左富士と副題がついています。東海道で普通は右側に 見える富士が左に見える所で親しまれた。

もう一箇所は今の茅ヶ崎市であった。




nchanoの独り言


 (東海道を下る(江戸へ)か上る(京都へ)かで富士山の見え方は逆になるのでは?と思いますが・・・・・) 

 







写真の富士山は正面ですが撮影場所には電線が 多いので画像編集で消しました。






16/55原(夜之景)




綺麗な描写ですね。気に入ってます。

蒲原の宿から少し離れた所らしいですが細部は不明。
雪の降りしきる夜、宿を探しているのか蓑の合羽と菅笠の二人は旅人か?。

もう一人はかさを半分にして反対方向に杖を突いている。

合羽を着てない所を見ると地元の村人か?。

版画は彫師と摺り師は別で版によって色使いも微妙に差があり此の蒲原も

空の色が違うものがあります。(屋根に近いところを黒くしている)

 初版は絵師(広重)の意向どうりと見るのが普通かと思いますが、

版を重ねると刷り方に差が有るようです。






日本橋から16番目の蒲原(夜之景)は重の東海道五十三次の中でも有名であり、また人気のある絵です。

徒然人も大好な絵柄(版画)でお気に入りです。
53次の中でも夜景で雪の中の風景はめずらしくもあり幻想的な風景となっています。

原といえば静岡で海に近く駿河湾の温暖地でもあります。

雪の降ることはめづらしかったはずです。

関連する本によりますとこれは広重の想像でないか、また、最近の説ではこの景色は蒲原でなく新潟ではないかと言う説もあります。(それならば雪景色も納得できますがね) 

ここの場所探しには苦労しました。

この場所は蒲原にある光連寺の近くと聞いておりましたが分からず、駅前の交番に飛び込み地図で聞きましたが近くをぐるぐると探し回りました。

途中で396号線の道案内に広重の蒲原の絵が描かれているのを見つけた時はヤッタと勇気付けられました。

そこからわき道に入り寺を見つけました。そこの駐車場にも同じ絵の掲示板が有り、さすが有名な絵の影響力と威力の凄さを感じました。



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 現在の場所と思われる近くの坂道?。    静岡の国道の案内に広重の絵。    手前が浄土宗 海前院光連寺  (1620年創建)

                                                                                                                                                                    当時の宿場の様子が書かれた絵看板がありました。


 
 


 17/55  由井 (薩捶之峰)





駿河湾、富士、伊豆の半島、白帆、老松、旅人と見事な構図の

絵ですね。今でもこの様な景色でその昔を偲ぶことが出来る所です。




由井(薩捶嶺さったのみね)は蒲原から約4kmの所に有る宿でこの峠は興津(興津)にむかう途中の所です。
図柄としては駿河湾に遠く浮かぶ白帆の船が4艘崖の遠くには裾野まで真っ白な富士山が見え綺麗な景色です。

一昔し前の風呂屋の絵柄の基本みたいですね
松の老木も変化をもたせ、崖の上の方には木こりが荷を背負っているのと旅人が富士山を手をかざして見て居るのが描かれています。名画の一つですね
徒然人もこんな所が現在でも残っているのかと思いましたが有りましたね。
峠の反対側にある端泉寺から峠を登りました。あいにく富士山は霞んで僅かに見えた程度でしたが景色は絵のとおり素晴らしい眺めでした。

眼下は駿河湾が足元に迫り細い道を転げ落ちたら海まで転がりそうな急な峠道でした。
 『親知らず子知らず、さった峠なり』と人々に伝わっていたそうです。
今は眼下は東海道線と東名高速、国道1号線がクロスしながら綺麗な曲線で海岸に迫っています。山の中腹はみかん畑と梅ノ木が続いています。峠を過ぎた(由井側)ところには幕末の頃山岡鉄舟が官軍に追われ居たのをかくまった望獄亭・藤屋があり、途中には東屋もありハイキングコースとしても良い所です




            

 今でも版画と似た景色です。       由比と興津宿の中間にある薩捶峠       薩捶峠の歴史           梅も咲いていました


18/55 奥津 (奥津川)





お相撲さんが2人興津川を渡っている。

一人は馬に乗り、もう一人は籠の中で窮屈そうな顔である


年も改まりまして平成20年の1月は奥津(興津川)です。

広重の原画は、浅い興津川でお相撲さんを人足4人が籠を担ぎ一人が馬を引いている。

これならば自分で川を歩いて渡れそうですが橋のない川を渡るときは当時川越人足を使わないといけない規則だったようです。

それにしても重そうな籠担ぎの顔。杖も突いて慎重に川を渡っている描写はちょっとユーモアも感じます。

 以前に紹介した司馬江漢の絵は人足は商売道具の杖も持っていないし、お相撲さんは一人だけは歩いて渡っている。

また、人足と体の大きさも同じで痩せている。

一寸現実とかけ離れているような気がします。

(徒然人観)次回は清水次郎長でお馴染みの清水市の江尻でこれから取材です








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海に近い国道1号線この川を人手を頼りに渡っていた。    現在の国道の直ぐ上流のJR東海道本線。  今の海岸線は1854の安政地震の時に土地が隆起した陸地が国道もJRも隆起した場所?・・・・。 案内板によれば、1351年足利尊氏は弟足利直義をこの地で破った。    また戦国時代の1568年武田信玄が駿河進行のとき今川氏直がこの地で迎え討ったが敗退し、その翌年は小田原の北條氏と武田軍が戦ったが勝敗つかず武田軍は軍を引いた。




19/55 江尻 (三保遠望)




三保の松原は天の羽衣伝説でまた、駿河湾と富士山、松原で観光地として

すばらしいところです。

 この様な眺望を得るのは旧宿場(現市内)の所からは望むべくもない。









 回は江尻三保です。日本橋から数えて19番目です。三保望遠ですから広重は遠くから現在の清水港と三保の松原を描いています。その場所が江尻というとことで現在の清水市です。市内のどこかは一寸わかりません。絵の構図からするとかなり高台から見た風景画ですね。

この東海道シリーズではほとんどの場所で、人物が描かれいますが人が描かれてない数少ない中の1枚です。














1.日本平        2.旅姿3人男の碑                      3.次郎長の生家の店           4.店の中

    

1.広重の絵になるべく似た所を探し回りやっと見つけた所からです。前面に清水の港、中間に三保の松原の半島、遠くに駿河湾です。

.お茶畑が一面に広がる日本平から清水市街を望む。
2.清水と言ったらマグロ?お茶?いや次郎長さんという方も多いと思います。
この歌碑は次郎長らの墓がある梅陰禅寺の境内にある。小政、大政、石松の墓も並んでますよ。

徒然人もこの歌は大好きです。
3..次郎長の生家です。間口は小さいがうなぎの寝床のように奥行きが長い。
(当時の税金はまぐちのひろさできめていたとか)
 中は遺品他いろいろな道具、写真などあり、奥のほうでみやげ物を売ってました。

 明治維新以降の晩年の生き方が良くわかります。英語塾の開設、海運業の会社設立、富士や三保の開墾などにもたずさっわたと記されています。

4.生家の中で開運と勝ち運をたのみました。





20/55 府中 (安倍川)





女性の後についているのは三度笠の男衆 肩車で渡っています。

たぶん籠よりはう安いのでしょう。男の背中にの字が書かれています。

これは版元竹之内孫七を示しチャカリと版元をPRしているようです。
対岸は馬に荷物を載せて川を渡る人足とやや離れたところの4人は飛脚便です









 府中は武蔵府中(東京の府中市)、甲斐府中(甲府市)、備後府中(広島県の府中)、安芸府中(広島の府中町)、越前府中(福井県武生市)など各地にあります。
国府。またはその所在地を表しています。現在の静岡市は家康がここ駿府城で晩年過ごしたと記録されています。

今月の安部川は川越人足の手を借りながら川を渡る籠と蓮台の上の女性二人それに肩車の一人が主役ですね。

そのほか川を渡るいろいろな姿が描かれていて当時の旅姿が良くわかります。






        1.安倍川の対岸より        2.橋を渡った対岸より東海道見る      3.安倍川 アベカワ餅で有名この付中は東海道の中

                                       でも 大きな宿場で本陣脇本陣各2軒,旅籠43件

                                       人口14071人3で駿府城の城下町であった。

                                




21/55  丸子 (名物茶屋




季節は春のようです。空の色も明るく庭の梅も咲き、畑は麦の様に見えますが・・・
今の季節で2月の終わりから3月の上旬ごろと思えます。のどかな風景ですね。




丸子は鞠子と書かれていることもあります。場所は現在の静岡駅から安部川を渡り西へ 旧道を山の中に入って行った所です。

画中の名物茶屋は「名物とろろ汁」の看板が 描かれており中の客人の二人はどうもとろろ汁を食べているようです。
店の女は子供を背負いお茶でも出しているのでしょうか。

また、店の表には「お茶漬け」と「酒のさかな」と書いてある。

店の中には魚の串刺しも見えている。
先を行く男は長い竿のような物を持っていますが何かは良くわかりません。



            

 今でも版画と似た景色です。   由比と興津宿の中間にある薩捶峠の歴史   丸子の先の宇津の谷トンネル入り口、国道1号


22/55  岡部(宇津之山)




山深い宇津の峠です。川も急流のようです。人物は5人描かれています。

4人は地元の木こりのようでいずれも木を背負っている。

残りの一人は旅の人のようです。色合いといい両側の山の迫り方は深山を

思わせますね。




箱根、大井川に並ぶ難所と言われた山道です。現在の東海道から外れた街道で、今でも山道となっており車は通れますが山のなかにはかわりがない。

「蔦の道」ともいわれた道にもつながっています。この道は平安前期歌物語である伊勢物語で有名な在原業平が「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあわぬなりけり」と読んだと物の本に記されています。

それほど山深い所だったのでしょう。東海道膝栗毛の中でも弥次さんが足の豆をつぶした所で岡部の豆腐を足の豆に掛けた歌があります。岡部の名物は焼き豆腐。


                1.             2.                       3. 

           


             4.                 5.

     


1.今でも広重が描いたところを思わせるような山中です。2.丸子側から旧道で宇津ノ谷(や)峠に入る分岐点で見つけた案内板。  3.丸子の先にある宇津ノ谷。この先が岡部の宿となっている。 4.当時を思わせる街道で集落となっています。歩いていても誰にも会うことは有りませんでした。 5.山の中ですが観光も兼ねていて良く整備保存されています。名物(十団子)

3.

23/55  藤枝 (人馬継立




問屋場の様子を描いている。大勢(10人)の人足がいてそれぞれ違った

ポーズで荷物を積む者汗を拭く者、キセルを吹かす者、またそれを監視し

たり見ている役人が生き生きと描かれている。武士の旅の様子らしい。




   23/55  藤枝 (人馬継立)


馬継ぎ立てとはこの藤枝宿で馬や人足もここで交代をしていた事を表しています。

藤枝の様子は問屋場(といやば)と言われたところで荷物の引渡しや運び賃見直しなどを行い賑わった場所です。

宿場は本陣二軒、旅籠屋三十七軒であった。現在は商店街として町並みを形成していますが城下町として発達したそうです。

徳川家康がこの地で鯛(鯉の説もあり)の天ぷらを食べ食あたりが原因で亡くなったと言われています。・・・・が本当は胃がんらしい




            

 藤枝の商店街                                 飽波(あくなみ)神社古い歴史と格式のある神社。          街道にあった老松(一理塚?)

                                                    大祭(藤枝大祭)には十数台の山車が繰り出し賑わう。


         

24/55  嶋田 (大井川駿岸)




駿岸の図 内容は大名行列の渡河です。人物は100名以上が描かれて

おり籠、馬、荷物、指揮官と思われる武士などいろいろなポーズです。

その後の方は一般の旅人までが描かれており力作の一つではないのでしょうか。





   24/55  嶋田 (大井川駿岸)


53次の旅もやっと大井川を渡ります。

昔から東海道の旅で大変なのは箱根の山越えや宇津之谷などが有名ですが街道一の難所は大井川だったようです。

今回はその川の両岸をまとめて掲載いたします。

(景色は川の土手なので写真的にもどうと言うこともない所でもあります)

箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」は有名な歌ですね。

副題の駿岸は勿論駿河の国の境であり遠岸はこちら、西側が遠江の国の意味があります




            

                   大井川の嶋田側土手より

                  


25/55  金谷 (大井川遠岸




金谷側の風景です。行列の先は川を渡りきっています。

大きな荷持つや籠の大きさから推測すれば大名や武士が渡っています。
人物はすべて同じ方向を向いており行列の一行と思われます




  25/55  金谷 (大井川遠岸)


川を渡るのには人足(雲助)にたのむのですが川の深さにより渡り賃が違います。

ひざ下や脇の下、乳下などいろいろ細かく金額が違っています。

川が増水して渡ることが出来なければ両岸の宿で何日も泊っていなければならない事になり、宿泊代もかさんだのではないのでしょうか。

そんなことを含め難所として有名だったのです。

 次号は伝説で有名な「佐夜中山の夜泣き石」を訪ねます


            

                   大井川  金谷側より                     大井川  鉄橋は東海道



26/55  日坂 (佐夜中山)





          日坂(佐夜中山)26/55

山中を描いていますが、ものすごい坂道です。夜泣石が道の脇に転がっています。
それを見る旅人と急坂道を悠然と歩いている人、空籠を担いでいる人足。遠くに富士
山と思われる山もあり、盛りたくさんの絵ですが何か不自然さを感じます。



  26/55日坂(佐夜中山)


旅は大井川を渡り掛川に入ります。

掛川市に入る手前に日坂(にちさか)が有ります。

ここに伝説で有名な「佐夜中山の夜泣き石」が言い伝えられています。

話はいろいろな形を取っていますが、街道を通っていた妊婦が山賊に襲われ斬られてしまった。その傷口から赤ん坊が生まれたのですが、その子供は泣き続けた。その思いが霊となり峠の石に乗り移り、その石が夜泣石と呼ばれ山中に残った。と言うことです。

広重はその峠と旅人、夜泣石を描いた。佐夜は小夜とも言われていますがこれはこの地の美人娘がかかわる伝説です。「子育て飴」とかの話も有りますが興味のある方は「夜泣石」でWEB検索をするといろいろな説が読めます。


  

                      日坂 山中の道      街道筋の「小泉屋」名物 子育飴       小泉屋 の近く 夜泣き石の碑



27/55  掛川 (秋葉山遠望)




               掛川(秋葉山遠望)27/55 

坊さんに挨拶をする旅人と子供、遠くに凧が泳いでいます。

一つは糸が切れて山のほうに、もう一つは画面から飛び出しています。

14/55「原」の富士山の書き方と同じ発想ですね。




  27/55は掛川(秋葉山遠望)


掛川のその北に秋葉山があり、広重は街道の橋と山と凧、往来する人物を描いています。今回はその川と橋の風景です。

川は今の市内にあり、橋は大池橋と言われ倉真川(二瀬川?)と逆川と合流近くに有ります。秋葉明神の帰りかと思われる坊さんとお辞儀をしている旅人、凧が二つ、田植え風景も描いています。

田植えに凧揚げは季節的におかしいと言う方もいます・・・・。

当時の風習として冬だけに凧揚げは限られたものでないと思いますがどうなんでしょう


   

      http://homepage2.nifty.com/n-chan/img420.jpg                              http://homepage2.nifty.com/n-chan/img422.jpg  

       掛川(大池橋) 今でも交通量は多い            掛川(大池橋) 川の幅はおもっていたより狭かった

      遠方は秋葉山か

                 


28/55  袋井金谷 (出茶屋ノ図)




茶屋で休憩する旅人と茶屋の女がカマドの火を見ている。

それに駕籠かきが煙管の火をつけている。籠の反対側には草鞋の紐を

締め直ししている人物が描かれている。関札の上には小鳥が止まっている。

遠方には稲の収穫らしく馬を引く農夫の姿も描かれており季節感と共に

旅の様子がきめ細かく書かれていると思います。





  28/55は袋井(出茶屋ノ図)


やっと袋井で東海道の真ん中の距離日本橋から230kmになります。

袋井市は始めて訪れましたが茶屋も市役所の近くに有り今でも東海道どまん中茶屋でPRしている。

昔は本陣が3件と旅籠が50件あったそうです。



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1. 袋井茶屋と案内図

  現在の茶屋道路の交差点近くにあり目立ちます。写真を撮っていたら店の中から休んでくださいとお声が掛かったが、

 先を急いでいたので中の様子は分からなかった。


2.袋井の広重出茶屋の説明

 広重の描いた茶屋の近くに有る説明掲示板。内容は広重が天宝5年ごろ袋井宿の東の入り口を描いたのどかな風景となっている。


3.袋井市役所の側にある小公園の案内標識

 

    

                  29/55  見附 (天竜川図)





見附(天竜川図)29/55

天竜川の渡し船の様子を描いている。船の数も何艘か描かれているが

川の中州の様子らしい。船頭の二人を主題に中ほどには馬や旅人、まだ

船中に乗っている旅人を描いている。賑やかな天竜川の船渡しの風景です。






     29/55は見附(天竜川図)


見附(天竜川図)となっています。

天竜川は急流で知られていますが、この辺は大きな川幅で川原の中を100mぐらい歩いてやっと水辺にたどり着くほど、その先には中洲もあり昔の旅人は大変な思いをしたことが分かりました。


見附とは? 一説によりますと京都から江戸へ下りここに来て始めて富士山を見つけた事から。

また、ここが見張り所で旅人を確認して治安を保ったころから来ているとも言われます。

東京にも赤坂見附は有りますので見張り所が正しいのでしょうか。


                           天竜川

            

さすが天竜川の川幅は広く幾つもの中州があった        中州を見る              水量は多かった。ここは船でな               広重の時代もこのような川幅があったのだろう                             ければ渡れなかったと思える。

                                                          人足の肩では危険

。                                              


30/55  濱松 (冬枯ノ図




濱松(冬枯ノ図)30/55

木下で焚き火をしている。旅人や籠担ぎだろうか、浜松らしい物は松と

遠くにある城でしょうか。



    30/55は濱松(冬枯ノ図)

 

浜松は浜名湖のうなぎや舘山寺、それと今は楽器の町として有名です。

広重の画にある老松や焚き火だけではこれが浜松を現しているとにはなりませんが、画中に遠くに浜松城が描かれています。

このお城は家康が改築したもので、宿場の整備も進み以降浜松は栄えたそうです。

徒然人も何年か前、浜松の楽器メーカを見学したことがありますが、調律の職人さんの音に対する感覚は素晴らしく驚きました。




http://homepage2.nifty.com/n-chan/img436.jpg

今や大都市となった。楽器の製造で今は有名、うなぎも有りますね。

近くの文化センターで聞いたのですが広重の絵のような所は分からず見つかりませんでした。


           

 

GOGO/55東海道 前半その3  1番日本橋〜35番浜松 


今回、記載されている訪ねた場所の一覧です。

未だ25ヵ所ありますが続きはその4です。


01 日本橋 朝の景 02 品川 諸侯出立 03 川崎 六郷 04 神奈川 台町04 


05 保土ヶ谷 帷子橋 06 戸塚 元町別道 07 藤沢 遊行寺 08 平塚 縄手道


09 大磯 虎ケ雨 10 小田原 酒匂川 11 箱根 湖水図 12 三島 朝霧


13 沼津 黄昏図 14 原 朝ノ富士 15  吉原 左富士 16  蒲原 夜の景



17 由井 薩捶の峰 18 奥津 奥津川 19 江尻 三保遠望 20 府中 安倍川


21 丸子 名物茶屋 22 岡部 宇津之山 23 藤枝 人馬継立 24 嶋田 大井川駿岸


25 金谷 大井川沿遠岸 26 日阪 佐夜中山 27 掛川 秋葉山遠望 - 28 袋井 出茶屋ノ図




29 見附 天竜川図 30 濱松 冬枯ノ図



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